周利槃特

「周利槃特」紙、木紛粘土、枝、ペンキ、アクリル(2012年)

僕は、写実的な絵ばかり描いているかというとそうではなく、全然ふつうに(この言い回し今風だな)こういう作品も作る。まさに現在、アトリエの片隅で、同時進行で制作している彫刻作品もこれに類するスタイルの作品であるが、それもコンセプトは違うが相当ユニークな作品なので完成したら紹介したいと思っている。ただ、一つ一つの手仕事を楽しみながら、注意深く丁寧に取り組んでいるので、あっさり完成することはまず、ない。(その点では写実的な作品と何ら変わらない。)
読書が好きな僕は多くの場合、物語やそこにあった不可思議な感情と出会うと、何か着想を得た気がして、いてもたってもいられなくなって創り始めるのだ。
本作は、漢字にあてると「しゅり・はんどく」と読むが、梵語では、チューダパンダカと読み、釈迦の弟子、十六羅漢の一人とされる。
周利槃特は、生まれつき愚鈍で、それは自分の名前ですら忘れてしまう程であった。そのひどさに兄弟子たちも呆れ果ててしまう。ある日、泣きながら釈迦のもとを去ろうとする彼の姿を見た釈迦が問うと、「自分のように愚かな人間は皆の邪魔をするだけなのでここを去ります。」と言う。それを聞いた釈迦は、「自分を愚かと知る者に本当の愚か者はいない。」と言って周利槃特に彼だけの特別な修行を与えたのだった。それは、「掃除をすること」であった。それから周利槃特は、釈迦が教えた通りに「塵よ去れ!垢よ去れ!」と唱えながら何十年も無心に掃除だけをし続け、ついにある日悟りを開いたのであった。
さて、この物語を読んだとき、僕はとても示唆に富んだ話だと思って深く感銘を受けた。多くの人は、仏教を宗教または哲学という枠組みで認識しがちだが、僕は全く異なる視点でとらえている。もし仏教が宗教または哲学ならば、なぜ知的障害である彼が悟りを開けたのだろう。そもそも「悟り」とは何なのか。
極めてザックリ言うと、それは二元的世界観から一元的世界観への転換であると、僕は思う。言語による分別によって生きる世界から、言葉や分別を超えた世界への飛躍・・・。しかし、
これについては長くなるのでやめておこう。
2012年、断捨離をしていたとき、偶然この物語を思い出し着手した。もちろん彼と自分を同一視するような危険なことはしない。ただ、掃除が苦手でいつも部屋を散らかしてしまう僕は、(純粋に彼を尊敬し)自分を戒めるオブジェがあるといいなと思ったことと、周利槃特がもし知的障害者だったなら、彼は僕の務める特別支援学校にいる生徒たちと同じで、とても愛しい存在に思えたからだ。
ホウキのようなフォルムの頭部で、また「目からうろこ」ということわざを思い出して、金色の果実のような眼球がポロリと落ちていると面白いと思って作った。

 このお方は、僕の家の床の間に鎮座ましまして、おおらかな心で僕を見守ってくれている。

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