Medoūsa―焼失した風景

 この夏のある日、僕は、何気なく見ていたTVのニュースに釘付けになった。自宅から北へ10kmほど行ったところにある廃墟が、若者に放火されたというのだ。燃えた廃墟は、JR定光寺駅を出てすぐのところにある「千歳楼(ちとせろう)」。かつて千歳楼は、国定高原公園にも指定されている、定光寺公園を訪れる客たちで活気にあふれていたが、以後の経営破綻から閉館、長らく廃墟と化していた。渓谷にはりつくような特異な立地条件によって、歳月を重ねるうちに廃墟としての風格を増していった「千歳楼」は、その名称と現実の間に不運としか言いようのない符合を果たした。風格を増した廃墟が心霊スポットと噂されるのは、俗世における自然な成り行きであり、荒廃した佇まいは、悪意に直結した好奇心と衝動性をかきたて、今回の事件を招いたわけだ。

火災から数日後、この地に訪れた僕は、ここに広がる圧倒的な「負」の空気に凍りついて動けなくなってしまった。出火場所が一目でわかるほどの陰惨な痕跡。窓ガラスは粉々に飛散し、室内のカーテンが飛び出て、はためいている。屋内にもかかわらず草木が繁茂しており、ここまで野放図に荒廃をさらけ出している姿は、暴力や悪意をそのまま具現化したような力に満ちていた。そしてそれらによって装うものをすべて剥ぎ取られたこの風景の中で、露わになったものが僕の心をつかんで離さなかった。眼を覆いたくなるような醜悪なもの。しかし装うものがないということが僕を魅了する。描くという行為を通して世界を見る時、そこに美しいか醜いかは、あまり意味がない気がする。求めるものは、それが本物であるかどうか、ただそれだけだ。

「…おいお前。俺と勝負しないか?俺を描いてみろよ!」と千歳楼が僕に言っているように思った。

そして、僕は、「この風景を描く中で、あの黒い闇のような窓に一度心を沈めてみたら、そこにどんな世界があるだろう。」という恐ろしい衝動にかられた。これが本作を描き始めた動機である。自分の場合、本作のように描く前から主題がそこにあることは非常に稀なことであるが、負の空気に凍りついた経緯から、本作の主題をギリシャ神話から借用し、仮に「Medoūsa(メドゥーサ)」と命名しておこう。

翌日、フィールドワークを開始したが、おそろしくシンプルな立地条件であるため、選択枝はなく、描くポイントは対岸の駐車場の一点のみであることがわかった。そして千歳楼からの挑戦を受ける意味で、この千歳楼をトリミングしたりせず、ただ、全景をドンと入れて描くことにした。ただ、それではあまりにも芸がないので、画角の比率にこだわり、この風景を描くためだけに木製パネルを自作することにした。ボール紙をくりぬいて窓を作り、一辺をスライドさせて比率を決めた。(この作業は雨の中で行った)そして作製したパネルの比率は1060×680mm。さらに細密描写に適したヴィファールの細目を水張りした。また、100均で購入した透明な下敷きに、この画角に合わせた格子線を入れ、手作りのスケールも作成した。

   

 

実際、この場所にイーゼルを構えてみると、すぐ横は県道でダンプカーがお構いなしに走行する。安全面や場所の確保を考え、ホームセンターでカラーコーンを購入した。またイーゼルの接地面にペグを打ち込めないので、オイルスティックでイーゼルの足と自分の足元に印をつけておく。さらに、横長の画面を扱う状況に応じて、右方向に5度だけ振り幅を設定し、そこにもイーゼルの印をつけておく。これで狂いのない視点を確保し、準備は整った。

   

「風景はごまかしが効く」なんて軽々しく言う人もいるが、そう思うなら実際どんな風景であれ、その場所で描いてみてから言ってもらいたいものだ。容赦ない日差しに、蚊やアブ、ほこりや騒音、風が吹けばイーゼルは倒れるし、雨が降れば中断せざるを得ない。寒暖によって体力の消耗の度合いが違ってくるし、描く対象は刻一刻と光と影の様相を変えていく。僕が声を大にして言いたいことの一つに、透視図法などというものは、現場で描いたら机上の空論に過ぎないということだ。消失点は画角から数メートル離れたところにあるというのに、一体どんな定規があればそれを拾うことができるというのか。僕は、観念的な論理が嫌いだ。風景を描くようになって学んだことの一つに、描き手のフィジカルな(身体的な)要素は、対象とガチで向き合う上で無視できないということだ。

 

本作に取り組むのは、今日が初めてではない。記録していないが、8月からとりかかり、すでに10回はこの場所を訪れ、立っている。描く前から主題が先行している今回のような場合、勝負の利は対象の側にあり、描く前から僕は「負け」の状態にある。それでも僕は、描きたい。千歳楼に勝とうなんて思わないが、何か一矢報いて描き切ってみたいと願って止まない。(この話はつづく)

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