気になる印

今日は、仕事が代休日だったので、定光寺・千歳楼へ行き、炎天下の中、「Medoūsa」の制作に6.5時間取り組んだ。現時点で延べ73.5時間が経過したことになる。

イーゼルを設置してみると、足元に「気になる印」が・・・。「着前」。この印は、少なくとも前回訪れた時にはなかった。この類の印は、昔、土木の現場監督のアルバイトをしたことがあるので、なんとなくわかる。「このポイントから着工する。」という印(?)あるいは「ここに工事車両の前方を着ける。」という印(?)いずれにしても、数日後には、しばらく制作できない状況になることが予想される。残念だが仕方ない。

 

正午過ぎ、家で作ってきた握り飯を食べ終え、引き続き制作していると、背後から「コンニチハ!」と声をかけられた。振り返ると、ブロンドヘアの中年女性が立っていた。見たところアメリカ人のようだ。

女性:“Can you speak English? (あなたは英語話せますか?)”

僕:“Sorry. I can speak English little.(ごめんなさい、ほとんど話せません)”

女性:“(あなたは才能がありますね。どれくらいの時間かけて描いているのですか?)”

僕:“(およそ70時間くらいです。)”

女性:“(このホテルの所有者は誰か、あなたは知っていますか?)”

僕:“(・・・(-“-)・・・)”

女性はとてもクリアな発音で話してくれたので、話していることはよくわかるのだが、いかんせん、聞かれたことに対応する英語が出てこない。でも女性は、僕のつたない言葉を補いながら気さくに聞き取ってくれた。西洋人らしいフレンドリーシップが感じられる。

女性:“(あなたにとって、この絵を描く意味は何ですか?)”と聞かれ、はっとした。

その質問自体が、とても西洋的であると感じたからだ。この絵を描きはじめて、もう何人もの日本人のおばちゃんたちに囲まれたが、この西洋人女性のように、制作の意義について問う人は一人もなかったと記憶する。日本人は、見たものが見たままに描かれていれば、見たままの意味として納得する人が多いように思う。花を描いたなら、それは花を意味するもの以外何ものでもないというように。感覚はそれ自体が意味であり、感覚と意味とが混然一体となっているようなところがある。一方、西洋人は、感覚と意味とが分化されており、それらの相互をつなぐ論理的な思考がある。だからこそ近代以降の西洋芸術が、国際的にも先進的な展開をなし得たのではないか。

僕にとって、この絵を描く意味は何か・・・?

仏教の精神を民族的体質としてもつ僕にとって、この風景は、「無常」を象徴的に示す事象として捉えている。この世に普遍的なものはなく、あらゆるものは時の流れの中で移ろい続け、実体がない。この「無常」の感覚に誘われて、僕は描くのだ。それはキリスト教に象徴される普遍的世界を希求する西洋文化とは対極にあるものかもしれない。

今日一日かけて描いたのは、前景の樹木の一部である。10センチ四方にも満たない世界を描くのに6.5時間を費やしたのだ。風が吹けば樹木は揺れる。日が移ろえば葉の色も変わる。「無常」はこんなちっぽけな草木の中にも存在する。

 

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