苦しみのない穴

1996 手

最近、職場の人から聞いた話である。信じがたい話なので、調べてみたら、本当に本当だった話…。

アメリカにココという名のきわめて頭の良い雌ゴリラがいて、研究者から手話を学び、1000語もの言葉を習得し人間と対話ができるようになったそうだ。ココは誕生日にプレゼントされた猫の絵本を非常に気に入り、本物の猫を贈ってくれるようにおねだりした。ココは研究者から贈られた本物の猫を愛しく抱きしめ、心から可愛がったが、ある日猫は車に轢かれ死んでしまう。悲しみに暮れ、泣き伏すココ。研究者は、ココに「死とは何か」と聞いてみたところ、ココは、「死は、苦しみのない穴で眠ること」だと手話で伝えたという。

【参照】https://matome.naver.jp/odai/2137259098782751501

手話を習得し、猫を可愛がるというゴリラがいること自体、ありえないような話である。しかし、もしそれが偽りのない本当のことだとすれば、驚くべきことは、ゴリラにも「死」についての概念があり、「死」という境界を隔てて「苦しみのない穴」とする異世界の存在を捉えていることではないだろうか。

僕はこの話を聞いたとき、ココの言葉が、仏教の説く死生観と非常に似ていることに衝撃を覚えた。

かつてインドにおいて厳しい修行の末、悟りを開いたブッダは、人間の「生」の本質は「苦」であり、人間は因果応報の渦である因果律の中を生きているという。ブッダは、苦しみの根源である因果律を探り、十二因縁説を説いているが、十二因縁説とは、生きとし生けるものの世界は「生」を営み、「死」を経てさらに「生」を構成し、苦しみ続ける円環構造を成していることを示唆している。

ところで、僕はなぜ、こんなにも仏教に意識が向かうのだろう?僕には宗教的感情が欠落しているばかりか、宗教を毛嫌いしているところがあるのだが…。僕のアンテナが反応し意識が向かうのは、ブッダの言葉が残る阿含経などの原始仏教や日本に伝播し姿を変えた禅などである。それらは、自己が自己の「心」を内省することで到達する気づきの世界である。したがって、客観的論理の構築によって普遍的世界を見出そうとする西洋哲学や、絶対的な神の存在を崇拝するキリスト教における世界観とは大きく異なる。仏教の自己への透徹した眼差しは、僕にとって、どこか絵を描く眼差しと等しい気がしてならないのだ。

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