向日葵について

月の使者(部分)

遅筆な僕にとって、静物画はじっくり時間をかけて描き切るのに適した画題だと思う。特に細密に描くことにこだわりがあるわけではないが、対象に迫るアプローチの仕方には、どうしても自分の性質が反映されてしまう。ある意味においてデッサンは、眼に映る対象世界に対する描き手の欲望というか、本性のようなものを露わにしてしまうようなところがあると思う。

僕はデッサンを描くとき、多くの場合、自分が一匹のアリになった気持ちで視線を這いまわすようにしている。対象の捉え方は制作のプロセスに沿って徐々にモチーフに接近していき、さらに近づき続けると、自分の身体感覚がどんどん小さくなっていく錯覚を覚える。思うに、アリくらい極小な存在になったとしたら、空間に対する感覚はもちろんだが、時間の感覚もヒトのそれとは違っているのではないだろうか?アリが何年生きるのか、寿命は知らないが、もしかしたらヒトの一生と変わらない濃密な体感時間で生きているかもしれない。これは僕の空想にすぎないが・・・。

 

絵の中でアリになった僕は、最近、向日葵のパートを這いまわっている。「向日葵」と言ってすぐ思うのは、やはりファン・ゴッホの晩年の作品だろう。精神を病み、疲弊したファン・ゴッホは、その激しい人生の終焉を予見するかのように枯れた向日葵を描いている。それは衝動的で本能的な創作であり、何かにつき動かされて描いているように僕には見える。それが彼の天才であることは言うまでもないが、見方を変えると向日葵には、他の花にはない、ある種独特の啓示を引き出す力があるのではないかと思うのだ。それについては、例えばファン・ゴッホとはスタイルが大きく異なるが、エゴン・シーレの描く向日葵にも共通したものを見出すことができる。僕がそこに見るのは、メメント・モリ(ラテン語で死を想えという意味)の視点だ。

日本人は桜を好む。美しく咲いて潔くパッと散るはかなさが、そのまま日本人の美徳や死生観を映している気がする。それに比べ向日葵はどうだろう。咲いているときは、燃えるように激しく、他の花を圧倒する栄華を主張するが、枯れてしまえば黒ずんで干からび、惨たらしい醜さを湛えながら何かを残していく。・・・そう。もしもあなたが思慮深い人間であれば、気づくことだろう。死骸のように醜い向日葵には、次の時代に命をつなぐ無数の種子が宿されていることを・・・。

 

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