百眼自画像

1992~93 百眼自画像

もし誰かから「“ドローイング”ってなに?」と聞かれたら、僕ならこう答えるだろう。

「紙があったら描く!それが“ドローイング”だ!」と。

いつでもどこでも思いのままに描く。制約は何一つなく、ただ描きたいように描けばいいのだ。どこまでも自由な描画。絵が絵に固まる前の柔らかい想念の表出。僕はしばしば描画にからめて文字も描きこむ。落書きやメモと同じくらい気軽な創作活動だ。とにかく楽しいので、描き出すともう止まらない。次から次へと発想が連なっていく。そしてお腹いっぱい描き終えるとカタルシスが得られる。何より全くお金がかからないから、素晴らしい。これまで僕は何千枚と描いたことだろう?

今日紹介するこれらのドローイングは、昔の僕の作品である。驚くかもしれないが、これらのドローイングの多くは、友人と長電話しながら描いたか、もしくは下宿のテレビでビデオを見ながら描いたものがほとんどで、ながら描きという実にニュートラルな状態で描いたものだ。しかし(自分から言うのもなんだが)人によっては、こういう絵は嫌いな人も多いのではないだろうか?極度に内向的な視点で描かれたこれらのドローイングは、閉塞的で暗澹たる気分にさせる。そして僕自身もこの時期のことを思い出すと、少し辛くなる。

大学の卒業を控えたころの僕は、自分の創作の方向性や着地点が見出せず苦しみもがいていた。自分のスタイルが見出せない焦燥感から抜け出ようとして、芸術、自然科学、哲学、仏教、心理学関係の本を片っ端から読みあさっていた。太宰治のデカダンスに酔いしれ、つげ義春の漫画の「影」に憧れ、靉光の描く狂気に共感していた。しかし今思えば、これらの努力は、身の程に合わない無謀な挑戦であって、かえって混乱と苦悩の種を増やしただけに終わった気がする。ドローイングの中で、頭部からこぼれ落ち無数に増殖した「眼」は、浮遊し出口を求めて錯乱している。これらの表現の中に、当時、混迷の淵にいた自分の苦悩を如実に見ることができる。

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