芸大を卒業する、君たちへ。③

制作年不明 鳥

芸大を卒業する、君たちへ。③ ~アートとアーチスト~

 

読者のみなさんに、いくつかお詫びを申し上げたい。

1つは、本ブログの中で、「芸大生」をひとくくりでみんな就職を考えていない人たちのように書いてしまっているが、「芸大生」の中には、音楽学部、デザイン科、日本画科、陶磁科のように卒業後の進路をしっかり見据えているところもあるし、進路の選択は、人それぞれなので読む人によっては心外な気持ちにさせてしまっているかもしれない。失礼があってはいけないので、本文は、あくまで僕の個人的な体験談として受け取っていただきたい。

2つ目は、先ほどブログを読み返し、「なんだよ偉そうに!」と自分で書いておきながら、そう思ってしまった。大した実績もない自分が偉そうにも教訓じみたこと書いてしまったことをお許しください。

3つ目は、最初に示した記述構成を修正しないことには書き進めることが難しいことに気づいてしまったことである。(なので、お題や構成上の順番が変わります)

みなさん、重ね重ねゴメンナサイ。

 

95年の油画卒である僕は、ファインアート系芸大生の視点で、芸大生の卒業から先の生き方を見ている。何しろ僕の視点は23年も前の話なので、現在の状況がどうなっているのかわかりかねるものがある。しかし、愛すべき芸大生の思考回路というものは、昔も今もそんなに大きく変わらないんじゃないかな、(だと、いいな!)と思っている。

 

そもそも、アートとは何だろう―。その問いは、容易に結論に至ることのない問いであることは、言うまでもない。

歴史的に見れば、中世封建社会の崩壊以降、アートは、市民権を得た芸術家個人によって生み出され、既存の枠組みからの破壊と創造を繰り返しながら、今日に至るまで多様な展開を遂げてきた。現代アートは、広範囲な領域に拡散しており、モダンアートのように、特定の画派やイズムでくくれないばかりか、アートの概念そのものが日進月歩の勢いで塗り替えられている。しかし、どのような変容を遂げようと、アートが、人間の根源的な欲求から生み出される精神的な営為であることは、変わらないように思う。

アーチストは自己の内発性を源泉として、「無」からアートを生み出す。もし君がアーチストなら、今、何によって動かされ、何を見つめ、何を求めているのか、そのことに真摯に向き合うべきである。そのようにして沸き起こる主題が、アーチスト独自の手技手法と結びつくとき、そこに新たな作品が生み出される。

・・・と、ここまでが予備校や大学の課題で学ぶアートのプロセスであるが、実はそれで全てではない。アート全体を見れば、そこから先、残り半分があるのだ。

アートがアートとして成立するためには、美術館やギャラリーなど、作品が人の目にふれる場所に展示されなければならない。アーチストの手を離れた作品が、展示空間に「着地」し、他者の目に触れ、一粒の種子が萌芽するがごとく社会にコミットしてはじめてアートと「成る」のだ。

現代社会では、このような、アーチストが扱うことのできない残り半分を、請け負うことのできる多種多様な専門家たちが存在する。その代表的な専門家と言えば、美術団体、ギャラリスト、学芸員・キュレーター、アートプロデューサーといったところである。

・・・もうお分かりだろうか?芸大を卒業する君たちが、卒業後、作家活動を続けていくということは、そういった専門家たちと、どのように関わっていくかで、アーチストとしての生き方のタイプが見えてくる、ということなのだ。

その生き方のタイプや社会的構造については、また次回、考察したいと思う。(もう眠くなったってしまったよ zzz…)

 

 

 

 

 

 

 

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