はじまりのはじまり[前編]

NAF 2018

自分にとってアートとは何なのか―。考え始めたらきりがないような深い混沌を残したまま、僕は長らく創作活動から離れていた気がする。いや、正確にはそれでも細々と作品を創り続けていたには違いないが、そこには何かが欠けていて、それが何かわからないもどかしさがあった。そんな混沌に陥るくらいなら、いっそ考えることをやめてしまえばよいのだが、そういうわけにもいかない。やめようとしてもそれは、影法師のようについてきて僕を悩ませる。

この長い混沌は、2001年豊田市美術館で発表した「おひさまのほほえむとき」に端を発するものだ。以前の僕の作品は、造形的な感覚や趣味的な世界観の面白さはあるものの、そこで自己完結してしまう傾向があった。それは自分の趣味性から出てくる創作なので、確かに「自分のやりたいことをやっている」には違いないのだが、表層的な欲求を満たすことはあっても、創作を生み出す「核」といえる内発的な欲求を満たすことはなかった。

僕は何をすべきなのか―。物事には、考えることで解決できることと、考えることで解決できなくなることの2つの道理があるのだと思う。だとしたら、僕につきまとう影法師は、常に後者の道理を突きつけているのだろう。それは思考を拒み、言葉で表しうる答えを求めることもない。なぜならこの道理には問いそのものがないからだ。そして、そのうち僕はそれと向き合うことがしんどくなって、ついにそこから離れてしまった。

しかし、それでも心は疼く。就職して特別支援学校に勤務するようになり、職場の空気にも随分馴染んできたが、それでも僕の根底にある本質は、どこまでいっても相容れないものがある。創作から離れていても、影法師はいつも隣にいて、僕をかりたて、後ろめたい気持ちにさせた。

 

いつしか僕は、時代の空気と逆行して、デッサンやクロッキーを描き始めるようになった。画塾で絵を学び始めた頃のあの高揚感を求め、受験以降やり残した修練を再開させることにしたのだ。デッサンやクロッキーはシンプルだ。描く対象があり、それを深く観察することができたなら、描く過程で主題を見つけることができる。はじめは単に基礎的な技術を強化しようと始めたことが、修練の深まりとともに、対象のもつ本質や背後に広がる世界から目を背けるわけにはいかなくなった。そしてそれらを深く観察する中で、対象世界と自己の内発性とが作品の中で有機的に結実し、ひとつの主題となって立ちあらわれることに気づいた。

描く対象は、風景であれ静物であれ、それが何であろうと、自分との関わりの中で何らかの意義をもって存在し、自己に潜在する様々な感情を引き出す力をもっている。しかし、そのような力を作品の主題として結実させるためには、固定的な先入観や思考をもっていてはうまくいかない。むしろ言葉や思考は邪魔なのだ。たとえばそれは、他人の話を聞く時に、自分が話していては聞くことができず、黙っていなければならないように、対象の内側から発する力に気づくためには、空虚を友とし、受容的でなければならない。

ある時、デッサンを通して僕が見出す主題には、どこか共通したものがあることに気づいた。それなりに歳を重ねたせいだろうか?最近の僕は、時の経過を少し俯瞰したところから見つめ、時のうつろいとともに物事が変化していく様相について、敏感に感じ入るようになった。そして時折、自分に訪れるあの深い感情・・・。僕はその感情に、自分なりの創作によってカタチを与えてみたいと思うようになった。

 

ながくてアートフェスティバル2018に出展した「はじまりのはじまり」とは、そんな自分の心情を端的に言い表している。物事の「はじまり」を「1」とするならば、それより前にある「はじまりのはじまり」は、「0(ゼロ)」である。空虚である「0」から見えてくる主題。それは言ってみれば、アートというよりむしろ、自分そのものに突き刺さっている命題なのだ。

この世界、この時代を共有しながら日々を生き、生産と消費のサイクルの中で一喜一憂しながら歩む僕たちの向かう先にあるものは、一体何だろう。「時の流れ」は津波のようにあらゆるものを飲み込んで過去へと押し流し、もう二度と元に戻ることはない。時間という変化の不可逆性の中にある僕たちの日常は、思いのほか不条理で、どこかやり場のない可笑しさに満ちている。そんな思いにたって創作を再開した今、ふと気づけば、長らく隣にいた混沌の主である影法師の姿は、もうどこにも見当たらない。[後編に続く]

 

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