はじまりのはじまり[後編]

NAF 2018

これまでの自分の制作スタイルを振り返ると、

  • デッサンを軸にした写実系絵画
  • タブローを中心とした具象~抽象絵画
  • 立体作品と空間構成

概ね3つの領域に大別されるが、それらはそれぞれ別個の方向性をもっているため、全体として一貫性を欠いた創作活動を続けてきたように思う。これには反省が必要だ。なぜ、僕の創作活動は、このような3領域に分化してしまったのだろうか。思うにこれまでの自分は、描きたいもの、造りたいものというように、制作上のモチベーションから構想を立ててきた。結果、自分の好む傾向が分化し、ひとつに絞り切れないまま、これら3つの領域に分散してしまったように思う。これは創作の愉しみやモチベーションを多方面から引き込めるという利点があるが、作家活動をアピールしていく上では大きなマイナス要素をもっている。2001年以降、創作活動から徐々に離れて行った理由として、分化していく方向性を統合することが困難になり、前編冒頭で記したような混沌に陥ったことが考えられる。

創作から離れた長い歳月の中、僕は何度も美術館に通い、優れた作家たちの現代アートを鑑賞し、自分に欠けているものは何かと考え続けてきた。

この現代において作品の表現様式が多領域にわたるアーティストは、いくらでもいる。現代アートの巨匠ゲルハルト・リヒター(独1932~)は、写実絵画、抽象絵画、立体作品、インスタレーションなど、同時展開で制作している。しかし彼の場合は、表現様式のちがいはあれど、主題やコンセプトに一貫性があり、相互に補完しながら活動全体を、より柔軟で堅牢なものにしている。世界のトップアーティストと自分を並べて考察することは誠に僭越であるが、このような偉大な先例が示唆するところ、自分の最大の課題は、表現様式が多領域に広がったことではなく、それぞれが関連性をもたない自己完結した展開をしてきた点にある。この課題を克服していくためには、はじめに「作品ありき」で構想を立てるのではなく、自己に潜在する内発性がどこに発露を求めているか、注意深く探るところから始めなければならない。

前述を踏まえ、今回の出展「はじまりのはじまり」では、ひとつひとつの作品が、それぞれの主題をもちながら、お互いに関連しあい、展示空間全体で大きな1つのコンセプトを構成するようにした。自己の内発性から発露したコンセプトを創作の中心に置くことで、これまでの自分の幼稚な創作スタイルを脱却するとともに、今後は、それぞれの領域を横断的に展開していきたいと考えている。

 

《出展作品の紹介》

1994 旅行者の靴

『旅行者の靴』

この作品は、1994年の初個展から、2001年の豊田市美術館での発表を経て、今回の展示に再び登場させた。この作品は、本ブログ「K先生の靴」に記したように、制作動機は単なる写実描写の意義によるものだったが、2001年に作品の見立てを新たにし、題名を「旅行者の靴」と改定することで、展示空間に「時間」「旅」「労働」「探求」「歩行」など、この作品の象徴的な意義を添える可能性を開いた。今回は、これまで創作活動から離れていた自分の過去から現在への橋渡し役としての役割を与えることとした。

 

 

 

『周利槃特』

2012年断捨離を決行した際に制作したこの作品は、本ブログ「周利槃特」でも記したように、掃除によって執着を捨て、悟りを得た仏弟子の像を形象化したものである。2012年に制作した当時は、抜け落ちた右目は眼球の形だけであったが、今回はそこに造花の芽を差し込んだ。抜け落ちた眼球が一元的世界への開眼や解脱を表し、熟してこぼれた果実のような眼球が芽吹き、花を咲かせることで死と再生の循環を象徴化させようと試みた。

 

 

 

『誕生』

これらの無数の穴のあいた石は、愛知県知多郡美浜町にある野間灯台付近の砂浜で採取したものである。これらは柔らかい砂岩であり、貝が巣穴をあけて暮らし、死んでしまうと丸い穴が残る。この石にあいた穴は、「かつてここに命が宿っていた」という、言わば「生命の刻印」ととらえることができ、この石が海から打ち上げられ、朽ちていくまでの「時の流れ」を思わずにはいられない。はじめてこの石と遭遇した時、僕はこの石の異形さに衝撃を受けた。この石の穴は、月面のクレーターを想起させ、「惑星」「宇宙」「死」「時間」「痕跡」など象徴的な意義を含んでいる。この石が生まれた海の世界と、我々人間が暮らす日常世界は、決して交わることのない場所にありながら、この世界における等しい時間軸の中で「時」を共有している。このようなパラレルな関係性を表現するために、台座部分を新聞の束を積み上げて構成し、この石と対比することで、忙しなく生きる僕たちの日常世界に通底する無常観を露呈させた。僕たちの日常を超えた俯瞰した時間軸で世界を捉える時、果たしてそこに何が生まれるだろうか。

 

 

 

『星に願いを』

本ブログ「二律背反のカタチ」「レジェンドな暴言」「人間戯曲」にも記してきたが、本作品は、中国の老荘思想にみられるような円環構造をもつ寓話性を形象化した作品である。(展示空間の中ではひときわアイロニカルな様相を呈していたように思う。)貝の巣穴のある小石を星と見立てる時、人はそこに何を求め、どんな願いを思い描くのだろうか。僕たち人間は、星に象徴される何かに夢を抱き、それを得ようと文明を高く積み上げてきた。しかし、何かを得た一方で、何かを失ったことも確かである。倒壊寸前の積み木のような家屋にすがってなお、星を求め続けるような愚行を僕たち人間は繰り返していないだろうか。この作品はコミカルな造形でありながら、人間存在を嘲笑うような「毒」がある。しかし、この作品を作ってみて気づいたことだが、そんな愚行を繰り返す人間の無様さについて、僕はそんなに嫌いではない。むしろちょっとだけ好きなんだと思う。(笑)

 

 

 

『はじまりのはじまり』

自己の内発性が、ひとつの創造的なカタチを結実させた記念すべき作品である。やきものの町瀬戸市で育った僕の記憶の原風景には、今もなお無数の煙突が立ち並び、黒々とした煙を吐いている。円形の段ボールを積み上げて造形した煙突は、「死」と「再生」のサイクルを象徴するオブジェであり、この展示空間の中核を成している。窯へと向かう橋梁部は、積み上げられた新聞の束で構成されている。毎朝、判で押したように繰り返し配布される新聞は、最新のニュースを届け一日が終えるとゴミと化して廃棄される。それはまさに「生産」と「消費」を繰り返す僕たちの日常そのものであり、それを橋梁部に使うことであらゆるものを過去に押し流していく「時間」の寓意を形象化している。さらにそこに透明なアクリル板を表面に置くことで反射の生み出す非日常的な感覚を演出した。

人生にかかる橋を渡る影法師たちは、大八車に「生命の刻印(石)」をのせて忙しく歩み続ける。黒々としたトンネルの入り口で待つ鹿は、異世界からの「使者」だろうか。

僕たちは日々を生き、生きたことを何かに刻み、前へ前へと生きていく。この橋はひとたび渡りはじめたら、前に進むことはできても、もう二度と後ろに戻ることはできない。僕たちの生きるこの世界の本質は、思いのほか不自由で不条理な苦しみに満ちている。それでいてなお、僕たちは生き続けたいと願う。それは僕にとって本当に不思議なことに思えてならない。

 

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